児玉朋己(こだま・ともみ)プロフィール

谺(コダマ)こと、児玉朋己(こだま・ともみ)。

歌うピア・サポーター。

静岡県藤枝市にある、
自立生活センターのおのころ島が運営している地域活動支援センター「りんりん」の施設長として、
精神障害を持つ方へ、
ピア・カウンセリングを軸にした支援を行っています。

28歳の時に統合失調症を発症、
病身である身の丈を考えず無謀な就職を繰り返し、
さまざまな仕事を転々としてきました。

ざっと振り返るとこんな感じです。

発病から職業遍歴時代まで

平成7年3月・・・発病(心因反応)
平成7年4月・・・帰省
中古車販売(1週間)
平成7年初夏・・・地元クリニックへかかる・・・幻覚・・・家でゴロゴロ
内職(数ヶ月)
地質調査のボーリング手元(数ヶ月)
平成9年11月
事業者相手の商社(1年1ヶ月)
平成11年秋
市のごみ収集(7ヶ月)
平成12年秋・・・転院(障害者年金受ける・病名を知る)
平成13年3月
建築事務所(1年)
平成14年10月
郵便局(2ヶ月)
平成15年・・・1年間仕事せず半ば引きこもり状態

このバイト遍歴が終わるきっかけになったのが郵便局の仕事でした。
くわしくお話しします。

大失敗した郵便局の仕事

平成14年10月、
郵便局が求人情報誌DOMOでゆうメイトを募集をしていたので行きました。
仕分けの仕事です。
手で分ける分もあるのですが、
ほとんど機械で仕分けます。
機械で分け終わった分を、
決まった順番にまとめて配送の人に渡す仕事でした。

私以外はおばさんがほとんどで、
一人私より少し若い男性がいるだけでした。
その若い人は機械の操作を任されていました。
彼が出勤しない日は正職員の人が機械の操作をしていました。

簡単だと思っていた仕事に歯が立たなかった

はじめは楽勝だと思っていましたが、
そうではないことがわかってきました。
機械で仕分けられた分を、
決められた順番にプラスチックの箱に収めていくのですが、
その動作が私はひどく遅かったのです。
また、
自分のやりやすいようにやると、
「そのやり方ではだめだ。ひっくり返す危険がある。」
と言われました。
理屈ではわかるのですが、
教えられたやり方ではスピードが明らかに落ちてしまうのです。
思うようにいかないなと思いました。

ピンチ到来!

そうこうしているうちに、
機械の操作をしていた彼が仕事をやめることになりました。
すると担当の職員が、
「これからは全員で機械の操作をすることにする。」
と宣言しました。
そして、
彼がやめる期日までに、
全員が機械の操作とそれに伴う作業を覚えることになったのです。

彼のそばについて仕事を教えてもらえる日数は、
一人につき一日しかありませんでした。
彼について仕事を教わったのですが、
私にとってそれは膨大な量でとても一回で覚えられるものではありませんでした。

仕分けの作業では、
あいかわらずもたもたしていて、
おばさんたちからも冷たいというか哀れむような視線を受けるようになりました。
辛い、
やめたいなと思うようになりました。

パニック!!

若い彼がいなくなり、
機械の操作を順番でやっていくことになりました。
私はパニックになりました。

「いずれ順番が回ってくるが、私にはできない。」

私は、
担当の課長のところにいって、
「この仕事を続ける自信がない。努力しても仕分けのスピードは上げられないと思う。」
と言いました。
課長は、
私の仕事ぶりも見ていてあかんなと思っていたのでしょう、
やめることを認めてくれました。

危機は去ったが、、、

やめることが決まったので、
機械の操作の順番からははずされました。
私は、
機械の操作から逃げるためにやめると言ったのです。

私は、
年末の忙しくなる時期に入ると同時にこの仕事をやめました。

逃げたショックで引きこもりに

この、
楽にできるだろうと思っていた郵便局の仕事が出来なかったのはショックでした。
「俺はあんな簡単な仕事も出来なかったのか。大失敗だ。」
と落胆しました。
自信をなくしたのです。
やめ方もずるかったと思いました。
私はこのショックがひびいて、
次の一年間、
何も仕事をせず過ごしました。

振り返って考えたこと

今から振り返ると、
この時期までの私は、
「とにかく働かなきゃ、動けるようになったら働かなきゃ」
という意識にせかされていたと思います。

出来る限り早く一人前にならなきゃという意識が強かったのだと思います。
統合失調症という病気を持った者として、
症状と付き合い、
折り合いをつけていくという意識はまったくありませんでした。
やれば出来るし、
やらねばいけないと思っていました。

出来ない自分に出来ることを探そう

郵便局の仕事をやめて1年、
失意のうちに過ごした私は、
ようやく、
「いい加減このままではいけない」
と自然に思えるようになりました。
そして、
今度やる仕事は、
自分が確実に出来ることじゃなきゃだめだ、
と思いました。

このころ、
私はある本を読んで、
今の自分にぴったりのことが書いてあるのを見つけました。

体や精神にずっと負荷がかかってこなかった人が何かトレーニングを始めるときは、新たな負荷を、ゼロから始めてゆっくりとなだらかに上げていかなくてはいけない。

『メンタル・タフネス』

という意味のことが書いてあったのです。
私はそれを読んで、
「自分は、この1年間何も仕事をせず来たのだから、負荷がかかっていなかった。今から仕事を始めるとして、仕事量をゼロから始められて、だんだん上げていくことが出来るのはどんな仕事だろう。」
とふっと考えました。

作業所に行こう!

するとほとんどそれと同時に、
「それは、作業所に行けばいいのだ!」
と思いついたのです。
平成15年の12月のことでした。

こうして、
私は初めての社会資源である作業所「元気村」に辿り着きます。
発病から10年近くがたっていました。

元気村は、
私が想像し、
期待していたとおりの場所でした。

のどかで、
遠足のお弁当の時間のようでした。
家庭的な雰囲気で、
指導員が優しく気を使って声をかけてくれるのがありがたかったです。
何かミスをしても責められる心配がないというか。

「そのままでいいんだよ、構えなくていいんだよ」

と言ってくれているようでした。

縁あっていまの仕事に

その年の9月、
所長が私をおのころ島に紹介してくれました。
私を見ていて、
人を相手にした仕事があっていると判断したからです。

おのころ島は自立生活センターで、
障害者が障害者の支援をしているところです。

私は同じ障害を持つ方への支援をしたいと思い、
勧められるままおのころ島に就職することになりました。

プレッシャーのない職場環境

おのころ島は障害者が運営しています。
障害者は出来ないことがたくさんあります。
出来ないことは、
がんばって肩肘張っても出来ません。
だから、
出来ないことはやりません。
その代わり、
出来る人が出来ることをやればよいと考えています。
さばさばしているのです。

発病から現在に至るまでの私の回復

おのころ島に就職して19年目に入りました。
この間、
病気のため断念していた趣味の音楽活動を再開しました。
いま現在はお休みしていますが、
平成25年より5年間、
静岡市内のライブハウスで年3回のライブ活動を継続しました。
また、
平成30年には市民ミュージカルへの出演を果たすまでに回復しました。

げんきむら・おのころ島で得たこと

元気村に通所するなかで、
「自分にはできないことがあること」
「自分は何でもできるわけではないこと」
を知り、
けれどその一方、
「そんな自分でも生きていく意味と価値はあること」
「周りのためにできることをすればよいこと」
に思い至りました。

おのころ島では、
障害者が障害者を支援するという当事者性の大切さを学びました。

そして、
次のような価値観を持つようになりました。

私の価値観

人と世界と自分につながれて、好きでいる。

人は一人では生きていけない。互いにつながり、ともに生かしあうことでより善いことができる。また、根本のところで、人(個別の人や人一般)や世界、そして自分自身を好きでいないと、自分の対応や振る舞いがぎこちなくなり、自分と相手、双方の思いがうまく伝わらなくなる。これがすべての大前提。

本来性、必然性を大切にする。

何か物事を実行に移そうとしたら、その行動が物事自体が持つ本来性や必然性に基づいていないと、必ず不具合が出てくる。自分に対しても同じこと。自分の心にある本来性や必然性に基づかない思い付きや行動からは、不具合が生じる。

生・現場・ざらつき感のある一次情報に自分で触れて感じる。

そこからしか、生きるエネルギー、生きるための知性は生まれない。

常に本気で最善最良を求める・・・「今、この時が私の人生」。

自分の価値観に沿った行動を妨げるのが、自分自身がいい加減になってしまうことである。小さなことから大きなことまで、すべての物事に対し本気で最善最良を求めよう。

自分に対して正直でいる。

本気でいるために一番大切なことは、自分に対して正直でいることだ。自分の動機や衝動を理解し、まず自分がそれをごまかさないこと。
そして次には、それを極力、人に対しても誤魔化さないで理解を得られるように努める。人に対して誤魔化すのは、自分に対して誤魔化しているからである。
何か問題が生じるのは、人に対して誤魔化すことから始まる。

いつもこうした価値観のとおりにいられるわけではありません。
それでもこの想いを忘れずにいようと心がけています。