こんにちは!
谺(コダマ)こと、児玉朋己です。
お元気してますか?
私はちょっとワクワクしています。
それは、
これからこのブログで発信していく内容について、
「シン・病者の教養」
というコンセプト・キャッチフレーズでやって行こう、
という決意ができたからです。
今回は、
そのシン・病者の教養とは何か?
についてお話しようと思います。
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「シン・病者の教養」の定義
病者の教養とは、
まずは病気の正しい知識のことです。
そして、
病者が生き延びるための知識のことです。
さらに、
回復してその人らしく幸せに楽しんで生きていくための知識です。
こういった知識の集合体を「シン・病者の教養」と呼びたいと思っています。
〝シン〟と付けたのは。
たんに病気の知識だけを表すものではないから。
病気だから、
自分の病気について正しく知るというのはとても大切なことです。
とても大切ですが、
それは病者にとって必要な教養の、
ほんの「はじめの一歩」でしかありません。
というか、
病者に必要な教養全体を知るほんのきっかけでしかありません。
早稲田メンタルクリニックの動画
私はこのことを、
早稲田メンタルクリニック院長益田裕介Dr.
のYouTube動画から学びました。
精神科医がこころの病気を解説するCh
https://www.youtube.com/@masudatherapy
益田Dr.は当初、
「精神医学の知識体系を、病者向けに分かりやすい形にして提供する必要がある。なぜなら、それにより治療がより進むから。」
といって実践してきました。
それが今では、
公開する動画の内容が精神医学の枠を超えて、
洋の東西を問わない哲学・思想・またその歴史にまで及んでいます。
その理由は、
精神医学の背景にそれらがあることはもちろん、
病者がそういった哲学や思想を体得することで治療の役に立つからだといいます。
私の場合
私自身のことを思い返すと、
発病前の中学・高校・大学生のころ興味の赴くまま学んでいた哲学・思想・科学などの知識があったおかげで、
発病後の闘病生活・闘病スタイルが好ましいものになっていたとわかります。
発病前ですから、
治療のために学んだわけではありません。
また、
闘病する過程では必要に迫られ病気についての知識、
あるいは他のさまざまな知識を学びました。
その時は切羽詰まり致し方なくといった感じが強かったです。
けれどそれを振り返ると、
治療や回復の役に立っていたことがわかります。
益田Dr.の言葉に触れて、
「そうか、俺のやっていたことは理にかなっていたのか!」
というのが率直な感想です。
そこで、
自分を振り返って
「これは闘病に役立った」、
と思える知識・教養を発信していこうと思い立ちました。
そのキャッチフレーズが「シン・病者の教養」なのです。
『人間にとって教養とはなにか』
ところで、
「教養」と名乗るからには、
教養について考えておこうと思い、
橋爪大三郎著:『人間にとって教養とはなにか』
を読んでみました。
たいへん考えさせられる内容でしたので、
ここで共有したいと思います。
教養の定義
著者による教養の定義は、
「これまで人間が考えてきたことのすべて」=教養
(P.61)
です。
この定義、
サイコーですね!
これまで人間が考えてきたことのすべてですから、
とてつもなく膨大で、
ちょっとやそっとではとても「教養を身につけた」なんて言えません。
またその一方で、
自分が興味のあることをきちんと学んだとしたら、
それが何であってもたしかに教養の一部を学んだことになりますね。
学ぶ者を謙虚にさせる定義だと思います。
以下、
この本が「シン・病者の教養」にかかわると思われる論点について、
いくつかお話ししたいと思います。
教養には明確な目的がない
著者は、
教養には明確な「因果関係」が存在しない
(P.63)
といいます。
決まった目的があって身につけるものではないというのです。
何か問題が起こってからあわてて教養を身につけようとしても手遅れ
(P.64)
ともいいます。
「答えのない問題」にぶち当たるのは、いわば「有事」。そのときのために、教養という問題解決能力を、日頃から培っておきたいものです。
(P.67)
とも。
これは痛いところを突かれました。
冒頭で述べた私の定義、
- 病気の正しい知識
- 病者が生き延びるための知識
とは、
まさに「病気に対処するため」という目的のための知識だからです。
これらは教養とは呼べないのでしょうか?
厳密に言うと、
たしかに著者の言う教養ではないかもしれません。
どうしましょうか?
私は、
上でも述べましたが、
これらは教養への入り口にあたる知識だと考えることにしました。
入口も全体の一部だから、
ギリギリ教養の一部だということにします(笑)
また、
私の定義の三つ目、
- 回復してその人らしく幸せに楽しんで生きていくための知識
は、
直接病気に対処するための知識ではないものを想定しています。
人生を楽しむための知識です。
何でもアリですし、
学ぶ過程も楽しむ知識です。
これは、
著者の定義から大きく外れないと思います。
というわけで、
「シン・病者の教養も教養だと考える」
ということにしたいと思います(笑)
「学ぶ」とは「生産」するプロセス
さてまた、
著者は教養の使い方についても秀逸な描写をしていますので紹介します。
無目的なまま、
楽しんで教養を学ぶことを前提としてですが、
そうやって身につけた教養がひょんなことで役立つ場合に起きている事態について語っています。
教養のあれやこれやは、「学ぶ」ことの「部品」と言ってもいいかもしれない。いつ、どう役立つかわからない部品を集めておく。「これまで人間が考えてきたことのすべて」を吸収するのは無理ですから、まあ、そこからつまみ喰いをする。そして、なにか「答えのない問題」にぶつかったら、手元の部品をいろいろ組み合わせてみる。手元の部品だけでは、これという答えに行きつかない。そこで、「自分のアイデア」という最後のピースをはめて、全体を完成させる。このように、自分なりの解決にたどり着くプロセスの全体が、「学ぶ」ことなわけです。
(P.78-79)
「うん、なるほど」
と思いました。
教養の断片を部品にして組み合わせ「自分のアイデア」を加えて答えのない問題に対する自分だけの答えを完成させる。
これを著者は「生産」と呼び、
情報を得たり技術を身につけたりする「消費」と対比させています。
これから発信していく「シン・病者の教養」が、
楽しんでそれ自体を獲得しつつ、
活かし方次第で結果として闘病に役立つ「学び」になったら嬉しいです。
私の発見(まとめ)
私は、
「たくさんの知識や教養を頭に入れたとしても、それが何になるのだろう?」
と思っているフシがありました。
たとえば、
ある数学の方程式を解く解法があって、
それが本に書いてあるとします。
すると私は、
「そうか、この答えはここに書いてあるんだな。答えがわかっているんなら僕がそれを勉強して覚える必要はないな」
と思うタチだったのです。
でも、
この考えは間違っていたと発見しました。
私がたくさんのことを知っている状態というのは、
たくさんの本がある状態とは違うと気づいたのです。
紙に書かれた知識は、
いくらたくさんあっても紙の束にすぎません。
でもそれを私が読んで頭の中にしまうことで、
その知識は活性化するのです。
私が生きるために使えるようになるからです。
知識は、
紙に書かれただけでは使えません。
人の頭の中に入れることにより使えるようになるのです。
教養を持っていると、
他者を、
世界を、
より深く理解することができます。
また、
他者から、
世界から、
より多くのものを引き出すことができます。
より深く理解し、
より多くのものを引き出せるから、
より多くの問題を解決できるようになるのだと思います。
教養があればあるほど、
この世界をより深く味わって生きられるようになるのだと思いました。
これが今回の私の発見です。
生きるって何だろう? 生命って何だろう?
谺(こだま)
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