こんにちは!
谺(コダマ)ッチャンこと、児玉朋己です。
お元気していますでしょうか? 私はゴキゲンです。
このブログ、
4か月以上ほったらかしになっていました。
久しぶりに投稿いたします。
今回は、
『読みたいことを、書けばいい。人生が変わるシンプルな文章術』(田中泰延著)
という本のレビューです。
自分がおぼろげに、
「これでいいのかな?」
と不安に思っていたことを、
それでいいのだ!
と言ってくれている本でした。
※本ページではアフィリエイト広告を利用しています。
私の思い・不安の核心を解消してくれた!
このブログでも、
もうひとつ私が書いているブログでもそうなのですが、
私には一つ、
記事を書くときにモヤモヤしていることがありました。
それは、
「思う存分書いていると長くなってしまうな」
「それだと読者のために良くないかな?」
「もっと短くまとめられないと読者が離れていってしまわないかな?」
「短くできないのは自分の技術不足なのかな?」
といった不安でした。
この本は、
そんな私に対して、
「そういう不安は持たなくていい。書きたいだけ書けばいい。」
と言ってくれたのです。
順を追って考え、順を追って書き記していくことが自己自身の理解への道のりそのものであり、結果として人の気持ちを動かす文章となる。その「思考の過程に相手が共感してくれるかどうか」が、長い文章を書く意味である。
(P.190)
私の不安の核心部分への解答がこれです。
また、
次のような文もありました。
うまく書けたもよく書けたもない。ただ「過不足がない」と自分で思えたとき、それは他人が読んでも理解できるものになるのだ。
(p.193)
思い返してみれば、
私は、
自分の書く文章が、
テストの模範解答のようなものでなければいけないと思っていたフシがあります。
テストでよくあるのは、
○○文字以内で書きなさい、
という文字数の指定です。
回答するときには、
この指定された文字数より少なすぎてはいけないし、
オーバーしてもいけないというプレッシャーがかかります。
そんな学生時代のテストから解放されてもうずいぶん経つのに、
いまだに、
そのプレッシャーを無意識に感じていたのです。
自分で「過不足ないな」と思えるまで、
書けばよかったのです。
言いたいことに対する前提が長すぎてしまう?
また、この本は、
それに関連してたもう一つの不安も解消してくれました。
それは、
言いたいことを説明するには、
これも、
あれも、
それも、
あっちのことも、
こっちのことも、
書かなければいけないけど、
こんなに材料ばかり事実を書き並べ続けてしまって、
読者が離れていかないかな?
という不安でした。
自分が言いたいことを言うための前提が長すぎて、
読者を飽きさせてしまわないか?
と思っていたのです。
これについてのこの本の回答はこうです。
書くという行為において最も重要なのはファクトである。ライターの仕事はまず「調べる」ことから始める。そして調べた9割を棄て、残った1割を書いた中の1割にやっと「筆者はこう思う」と書く。
(p.147-148)
つまり、ライターの考えなど全体の1%以下でよいし、その1%以下を伝えるためにあとの99%以上が要る。「物書きは調べることが9割9分5厘6毛」なのである。
私が文章を書くとき、
言いたいことがあって書きます。
それは誰でも同じだと思います。
それはいいのですが、
その言いたいことの前提をちゃんと書こうとすると、
ひどく長くなってしまうことが間々あるのです。
言いたいことは一言二言なのに、
その意見を言う根拠がたくさんあって、
書いていくうちに
「こんなに長くなって良いのかな?」
という不安がムクムクと込み上げてくるのです。
また、
往々にしてそういった前提は、
自分にとってはわかっていることなので、
書き並べていく作業に面白みがあんまりありません。
語弊があるかもしれませんが、
「こんな当たり前のことを、なんでこんなに長く書かなきゃいけないんだ?」
と思ってしまうこともあるのです。
この本は、
そんな私の思いについても解答をくれたのです。
随筆を支える文脈=ファクト
ところで、
著者の言うファクトとは、
文脈のことだと言います。
人間が創造したものにはすべて「文脈がある」からである。
原型がある。下敷きがある。
模倣がある。引用がある。
日向ある。無意識がある。それらは、作品を構成している文脈=ファクトだ。
(p.146)
著者は、
ネットで読まれている文章の9割は「随筆」であり、
随筆とは、
「事象と心象が交わるところに生まれる文章」
だとあらかじめ定義しています。
世の中のあらゆるモノ、コト、ヒトは「事象」であり、
それに触れて心が動き、書きたくなる気持ちが生まれる、それが「心象」であると言います。
私がさきほど言っていた「前提」というのが「ファクト=文脈」であり、
「言いたいこと」が「心象」です。
私が何かの事象(出来事、事件、ヒト、映画・小説などの作品)に触れます。
それに感動し、心象(言いたいこと)ができます。
その結果、
私は文章=随筆を書くのですが、
そのときその文章がまっとうな随筆となるためには、
その事象が含んでいる文脈=ファクトを解きほぐし、
順を追って説明する必要があるのです。
この順を追って説明する作業の最中に、
私は、余計な不安(長すぎないか? 読者が離れてしまうのでは?)を感じてしまっていたというわけです。
そのような不安は感じなくてもいいのだ、
ということについて、
著者は次のように言い切っています。
調べたことを並べれば、読む人が主役になれる。
(p.148)
解放感のある言葉です。
まとめ
この本が気づかせてくれたことには、
実は、
既視感がありました。
どれだけ長くなってもいいから、
文字数を気にせず、
ファクトを丁寧に書いていけばいい。
ということを、
私は以前に教わったことがあったのです。
それは、
経済人類学者栗本慎一郎が開いていた私塾「JKU」でのことでした。
私がある思い付きをノート見開きにまとめていったとき、
JKU唯一の講師が、
「分量なんて気にせずに全部書いてみてごらん」
と助言してくれたのです。
言いたいことをノート見開きにまとめたのは、
まさに「文字数を気にしていた」わけですが、
「そんな、学校だけで通用する約束事なんか忘れちゃっていいんだよ」
と背中を押してくれたのでした。
そのおかげで、
私は自分で「過不足ないな」と感じる分量で論文を1本完成することができました。
そんな、
20代半ばでの大切な思い出を、
この本は思い出させてくれました。
ありがとう!
生命って何だろう? 生きるって何だろう?
谺(こだま)
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