『愛するということ』レビュー:能動的に、自分のなかに息づいているものを与えよう

こんにちは!
谺(こだま)こと、児玉朋己です。

明けましておめでとうございます!
本年もよろしくお願いいたします。

昨年12月は、
風邪で2週間近く臥せってしまったこともあり
投稿がストップしてしまいました。

心機一転、
この正月三が日から、
また始めたいと思います。

よろしくお願いいたします。

今日は、
この年末年始に読んだ本、
『愛するということ』(エーリッヒ・フロム著)
についてお話しようと思います。

※本ページではアフィリエイト広告を利用しています。

愛するということ

この本は、
ドイツ南西部にあるフランクフルトで生まれた、
ユダヤ人の精神分析家・社会心理学者のエーリッヒ・フロムによって書かれました。

たいへん有名な本ですので、
ご存知の方も多いと思います。

原著が1956年出版・邦訳版が1959年出版ということで、
私もこれまでに何度も読むチャンスがあったのですが、
怠慢もありなんとなくやり過ごしてしまい、
いまに至ってしまいました。

いや~、
たいへん素晴らしい内容でした。

もっと早く読めばよかった。

今回は、
内容を忠実にお伝えするというより、
私が感銘を受けた部分をお伝えしていこうと思います。

第一章 愛は技術か

フロムは、
「はじめに」と「第一章」で、
愛は誰もが簡単に浸れる感情ではなく学ぶ必要のある技術だ、
と読者にクギを刺してから本論に入っていきます。

では見ていきましょう。

第二章 愛の理論

1 愛、それは人間の実存の問題にたいする答え

愛は能動

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

(p.41)

フロムはここで、
愛は能動的な活動だといいます。

受動的に浸れる感情ではなく、
能動的に与えることだというのです。

うむ、なるほど、と思います。

与えることについて

そのすぐ後で、
与えることについて説明します。

物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである。たくさんもっている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。ひたすら貯めこみ、何かひとつでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんの物を所有していようと、心理学的にいえば、貧しい人である。気前よく与えることのできる人が、豊かな人なのだ。

(p.43-44)

「たくさん与える人が豊かなのだ」
という言葉にハッとさせられました。

そしてさらに「与えること」についてくわしく語っていきます。

しかし、与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのか。それは自分自身、自分のいちばん大切なもの、自分の生命だ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなく、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているものすべてを与えるのだ。

(p44)

何を与えるのか

フロムはここで「何を与えるのか」について語ります。

それは、

  • 自分のなかに息づいているもの
  • 自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、すべて

です。

それを一言で言うと、
「自分の生命」
ということなのでしょう。

そしてさらに次のように言います。

ほんとうに与えれば、受け取ることになる

与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになる。

(p.45)
  • ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになる

勇気をくれる言葉です。

ところで、
愛の能動的な性質を示しているのは、
与えるという要素だけではありません。

愛の基本的要素

どんな形の愛にも共通する基本的要素があります。

それは、

  • 配慮
  • 責任
  • 尊重

だといいます。

これらは互いに影響しあっていて、
フロムはこれら要素ついて説明していきますが、
私が特に印象に残ったのは「知」についての説明でした。

「知」の限界と愛の行為について

私たちは、
物や生命の秘密を知りたいという欲望に動機づけられています。

フロムは、
秘密を知るための絶望的な方法として「他人を力で完全に押さえ込むこと」を取りあげ、
否定したうえで次のように述べます。

「秘密」を知るためのもうひとつの方法が、愛である。愛とは、能動的に相手のなかへと入っていくことだ。その結合によって、相手の秘密を知りたいという欲望がみたされる。融合において、私は相手を知り、自分を知り、すべての人間を知る。ただし、ふつうの意味で「知る」わけではない。つまり考えて知るわけではなく、命あるものを知るための唯一の方法、すなわち結合の体験によって知るのだ。

(p.53)

さらに次のようにも言います。

人間どうしの合一体験も、宗教における神との合一体験も、けっして非合理的なものではない。それどころか、アルベルト・シュヴァイツァーが指摘したように、それは合理主義の帰結、それも、もっとも大胆で徹底した帰結である。その底にあるのは、私たちの知には、たまたまではなく本質的に、限界がある、という認識である。これは、私たちは人間や世界の秘密を「理解する」ことはけっしてないにもかかわらず、愛の行為においてはそれらを知ることができる、という認識である。科学としての心理学には限界がある。神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。

(p.55-56)

ここでフロムは、
私たちの知には本質的な限界があり、
私たちは人間や世界の秘密を「理解する」ことはけっしてできないと言っています。

しかし、
愛の行為によって、
考えたり理解したりするのとは別のしかたでそれらの秘密を知ることができると言うのです。

うーん、
深いですね。

これを頭で理解するのは難しいですが、
それ(愛の行為なら相手を知ることができること)を知っているから、
私たちは求めあってしまうのでしょうね。

これ、
暗黙知(М・ポランニー)により知るということかもしれないと思いました。

2 親子の愛

さて、
フロムは項を変えて親子の愛について語ります。

ここで印象に残ったのは次の部分でした。

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

(p.67)

ここも、
私のような独身者にはちょっとむつかしかったです。

幼稚な愛・未成熟な愛とは、
子どもの愛や大人でも子育てをしたことのない人の愛なのでしょうか?

私は、
「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」
という境地には、
立ったことがありません。

世のお父さん・お母さんに、
この感覚がわかるか訊ねてみたいです。

フロイトの説の修正

ところで、
フロムが次のように言っているのが印象に残りました。

しかし、フロイトのいう超自我〔子どもの本能的欲求にたいする叱責や禁止が内面化されたもの〕とはちがって、子どもは母や父を自分のなかに取りこむのではなく、自分自身の愛する能力によって母親的良心を築き、理性と判断によって父親的良心を築きあげる。母親的良心と父親的良心はたがいに矛盾しているように見えるが、成熟した人間はその両方によって人を愛する。

(p.72-73)

この部分は、
フロムがフロイトの理論を修正していることが示されている部分だと思います。

フロムは研究者からは新フロイト派と呼ばれています。

ここではフロイトが、
「私たちは子どもの頃に受けた叱責や禁止を取りこみそれを超自我として内面化している」
とした説を修正しています。

3 愛の対象 e 神への愛

この項は、
神への愛がテーマです。

難しい議論が続きます。

アリストテレス論理学と逆説論理学

ここで私にとって大切だと思ったのは次の部分でした。

これまでアリストテレス論理学と逆説論理学とのちがいについて述べてきたのは、神への愛という概念における重要な差異について論じるためである。逆説論理学の教師はこう教える―人は矛盾においてしか知覚できず、最高の唯一の実在である神を思考によって知ることはできない、と。ここから、思考のなかに答えを求めることを究極の目的としてはならない、という結論が導かれる。思考はたんに、思考によっては究極の答えを知ることはできない、ということを人に教えるだけだ。思考の世界は逆説にとらわれたままである。結局のところ、世界を知るただひとつの方法は、思考ではなく、行為、すなわち一体感の経験である。したがって逆説論理学はこのような結論に達する―神への愛とは、思考によって神を知ることでも、神への愛について考えることでもなく、神との一体感を経験する行為である。

(p.118-119)

ちょっと難しいですね。

アリストテレス論理学については、

AはAであるという同一律と、矛盾律(Aは非Aではない)と、排中律(Aでないと同時に非Aでもないということはありえない)にもとづく。(中略)このアリストテレス論理学の公理は、私たちの思考習慣にあまりに深く浸透しているので、「自然」で自明のように感じられ、「XはAであると同時に非Aでもある」と言われると、意味をなさないように思われる。

(p.113)

と説明されています。

これに対し、
逆説論理学については次のような論理だと説明されています。

  • われわれは同じ川に入っていくのでもあり、入って行かないのでもある
  • われわれは存在するのでもあり、存在しないのでもある
  • 重さは軽さの根であり、静は動の支配者である
  • 道(タオ)はふつう何もなさず、したがって道のなさぬものはない
  • 私の言葉は、理解することも実践することもいたって簡単だ。しかし私の言葉を理解し、実践できる人はいない

そしてフロムは、
神について考えるには逆説論理学を用いるのが良いと考えているのです。

逆説論理学は、神の概念とおおいにかかわりがある。神が最高の実在であり、人の心が矛盾においてしか実在を知覚できない以上、神について肯定的に語ることはできない。ヴェーダンタ哲学では、全知全能の神という概念は、無知の極みとされる。

(p.118)

私が大切だと思った理由は、
上記引用のなかに以下の部分があるからです。

あらためて、「知」の限界について

  • 世界を知るただひとつの方法は、思考ではなく、行為、すなわち一体感の経験である
  • 神への愛とは、思考によって神を知ることでも、神への愛について考えることでもなく、神との一体感を経験する行為である

この部分は、
「知」の限界について語っていた部分と呼応していると思いました。

愛の行為によって、
考えたり理解したりするのとは別のしかたで秘密を知ることができる。

と言っていたところです。

そして、
さらにフロムはたたみかけます。

正しい行い

それゆえ、正しい生き方が重んじられる。些細なことも重要なことも含め、生活のすべては、神を知るために捧げられる。ただし、正しい思考によってではなく、正しい行いによって知る。東洋の宗教には、このことがはっきりあらわれている。バラモン教でも仏教でも道教でも、宗教の究極的目的は、正しい信仰ではなく、正しい行いである。

(p.119)

世界を知る方法が行為・一体感の経験であるならば、
正しい行い・行為による経験が必要だというわけです。

「行い」であることが重要だと思いました。

理解しようと頭で考えて知ることではないのです。

なぜならそのような知には本質的な限界があるから。

第三章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊

省略。

第四章 愛の習練

ここで衝撃の一文に遭遇しました。

愛することは教えられない

愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。

(p.160)

です。

あちゃ~!

と思いました。

この章の冒頭でフロムは言っています。

たいていの人は、
「どうしたら人を愛せるか」
を教えてもらうことを期待している。
そういう期待を抱いてこの最終章にのぞむ人は、
きっとひどく失望することだろう。

と。

まさに私がそうでした。

この薄くはない本を付箋を貼りながらがんばって読んできたのに、

  • 自分で経験する以外にない

とは。

トホホです。

教えてもらえることではないということですね。

とはいえフロムは、
「愛の技術へのアプローチ方法について、その前提条件とアプローチの習練について」
述べてくれます。

ありがたや。

以下、
この最終章で私が(私にとって)重要だと思ったところを取り上げます。

規律について

しかし、重要なのは、外から押しつけられた規則か何かのように規律の習練を積むのではなく、規律が自分の意志の表現となり、楽しいと感じられ、ある特定の行動に少しずつ慣れていき、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようになることだ。

(p.166)

これは「規律」について語った部分です。

規律というと、
つい厳しく辛いものだと思いがちですが、
そんな思いにとらわれることはないと言ってくれています。

集中について

いくつかのごく簡単な練習をしてみるといいだろう。たとえば、(だらしなくすわるのでもなく、体をこわばらせるのでもなく)リラックスして椅子にすわり、目を閉じ、目の前に白いスクリーンを思い浮かべ、邪魔してくる映像や想念をすべて追い払って、自然に呼吸をする。そうすることによって、呼吸が感じられるようにする。そこからさらに「私」を感じとれるように努力する。私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を感じとるのだ。少なくともこうした練習を、毎朝二〇分ずつ(できればもっと長く)そして毎晩寝る前にも続けるとよい。

(p.168)

これは「集中」について語った部分です。

これは、
いわゆるマインドフルネス瞑想そのものですよね。

現在のようなブームになるはるか前に言及していたんですね。

さきほど、
逆説論理学のところで「道(タオ)」がでてきたように、
フロムは東洋思想についてたいへん造詣が深かったようです。

メキシコ国立大学で研究していた1957年8月に、
日本の鈴木大拙らを招き、
「禅と精神分析」のシンポジウムを開いたといいます。

とっくの昔からホンモノにコミットしていたんですね。

偉大な人・文学や芸術作品に触れる

人間が(広い意味での)エンタテイナーとしてではなく、ひとりの人間として、どれほどのことができるのかを身をもって示した人は、過去にも現在にも大勢いる。そうした人々のことを若い世代に教えることだってできるだろう。また、あらゆる時代の偉大な文学や芸術作品を見てみればいい。そうしたことを通して、人間の健康な姿がどのようなものであるか、そして健康でない姿がどのようなものなのかを、はっきりとみんなに示すことができるだろう。

(p.175)

これは、
成熟した人間になるためについて語った部分です。

まったく、
おっしゃるとおりです。

私自身、
いまどきのハウツー本にばかり目が行っていたきらいがあります。

古典的な文学作品や芸術にいては疎いばかりです。

このブログのテーマである「シン・病者の教養」にもつながっています。

ぜひ取り組んでいこうと思います。

「信じる」について

愛に関していえば、重要なのは自分の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

(p.184)

これは、
「信じる」ことについて語った部分です。

他にも大切な言葉はたくさんあったのですが、
「愛に関して」、
私はこのように信じることができるか?
と、
心もとなく思ったので取り上げました。

これに関連してフロムは次のようにも言います。

信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことからはじまる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るか、それをどんな口実で正当化しているかを詳しく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむく、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって次のようなことがわかるはずだ。つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。

(p.189-190)
  • ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ

これほど深い言葉があるでしょうか?

私の愛の信念が揺らぐとき

フロムのすすめにしたがって、
私が自分の愛について、
どんなときに信念が揺らぐか自問してみました。

そうしたら大きな発見がありました。

私は、
仕事のうえで利用者さんと接しているとき、
恋愛の愛とは違いますが、
おおむね愛の信念をもって接することができていると思います。

おおむねではありますが、
体調や時間的な制約で揺らぐことはあっても、
自分の愛に疑念を持つことはありません。

しかし、
仕事ではなく恋愛の要素が入ってくると違ってしまうのです。

「この人いいな」
「仲良くなりたいな」
と思った人にたいしては、
「俺のこの好意は本物か?」
などという疑念が生じてしまうのです。

どうしてこの違いが出てくるのでしょうか?

見返りを求めるから信念が揺らぐ

さらに自問したところ、
次のような発見がありました。

恋愛の場面のとき、
私は、

  • 僕がこうしたら、この人は僕に好意を持ってくれるかな?

などと見返りを期待していたことに気づいたのです。

そして、

  • 好きになってくれなかったらどうしよう?

などとよけいな不安がわいてきていたのです。

その結果、
「俺の愛は本物か?」
などという疑念が生じていたというわけです。

仕事の際には、
それが仕事であるため相手と一定の距離感があり、
自分が愛を注いだとしてもそもそも見返りを求める発想がありません。

見返りを求めることに似ていることとして、
相手・利用者さんに期待してしまうことがあります。

これはやはり、
私の気持ちを不安定にさせます。

それは経験上分かっているので、
もともと過度な期待は持たないようにしています。

なので、
仕事においては見返りを求めることがないので、
自分の愛を「信じる」ことができているというわけです。

受け取ることは忘れていよう

前のほうで取り上げたフロムの言葉に、

  • ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになる

がありました。

これは真実なのでしょうけど、
受けとることをハナから期待していたら、
「ほんとうの意味で与える」
ことができなくなるのでしょうね。

愛の技術を十分習得する前は、
受けとることは結果的に得られるオマケだと思って、
忘れていた方が良いのかもしれません。

これをフロム流にいうと次のようになるのでしょうか。

人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛せない。

(p.190)
  • こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねる

この
「希望に委ねる」
が、
「見返りを求める」
となってしまわないように訓練するのが習練の目的なのかもしれません。

ふたたび、能動について

愛の習練にあたって欠かせない姿勢がひとつある。それについて、これまでは暗に仄めかすだけだったが、ここではっきりと論じよう。というのも、それは実際に人を愛することの基盤だからだ。何かというと、それは能動性である。
先に述べたように、能動とはたんに「何かをする」ことではなく、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。愛は能動である。人を愛するとき、私は愛する人にたいしてつねに能動的にかかわるが、その人だけにかかわるわけではない。もし私が怠慢だったら、つまり、つねに意識を働かせ、注意を怠らず、能動的でなかったら、愛する人にたいして能動的にかかわることはできない。

(p.190-191)

さて、
この最終盤になって、
一番最初に取り上げた「能動」がふたたび出てきました。

  • つねに意識を働かせ、注意を怠らず、能動的でなかったら、愛する人にたいして能動的にかかわることはできない

ここでは、
愛する人だけではなく他にかんすることについても「いつも・つねに」能動的であることが求められています。

つまり、
何事についても怠慢でないこと。

フロムは次のようにも言います。

じつは、退屈したり退屈させたりしないことは、人を愛するための大事な条件のひとつだ。思考においても感情においても能動的になり、一日じゅう目と耳を駆使すること、そして、なんでも受けとったまま溜めこむとか、たんに時間を無駄に過ごすといった、内的な怠慢を避けること。これが、愛の技術の習練にとって欠かせない条件のひとつである。

(p.191)

一人の人を愛するということの基盤には、
あらゆること・物に対して一日じゅう目と耳を駆使することがある。

その習練が、
一人の人を愛する基礎体力・技術を作るんですね。

自分のなかに息づいているものすべてを与えよう(まとめ)

この本を振り返って思うのは、
私に何が与えられるかを考えたときに、

  • 自分のなかに息づいているもの
  • 自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、すべて

を与えればよいのだという答えをもらえたと感じます。

自分の外部にある何かを手に入れて与える必要はなく、
自分のなかにある「心の動き」そのものを与えれば良いのだということ。

すこし安心しました。

また、
このブログのテーマからも外れていないとも感じました。

このブログの場であなたと共有するものは、
教養を含めてそもそもが私の興味が出発点となるものです。

My Small Journeys にしても同じです。

だから、
このまま進んでいけば良いのだという確信が深まりました。

あなたにもお役に立てば、
と思います。

ところで、
フロムには他に『自由からの逃走』という評価の高い本があります。

もともとこの年末年始にこちらを読もうと思っていたのですが、
雑多な事情が重なり、
『愛するということ』を先に読むことになりました。

今後、
『自由からの逃走』
についても、
投稿することがあるかもしれません。

長文になりました。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。

では、また!

追記

「愛することは教えられない」について

私は、
分からないこと・知らないことがあると、
何でもすぐに本で調べようとします。

子どもの頃からそういう性向がありました。

読書自体は良い習慣だと思うのですが、
「愛するということ」については、
本をいくら読んで理解しようとしても、
ほんとうに知ることはできないんですね。

フロムのいう「知」の限界。

自分で行い、
経験するしかない。

愛とは、
頭で理解しえないものだと諦め(明らめ)、
愛することを行っていきたいと思いました。

追記(2)

経験値が高かった私もいた

「本の虫である自分は本当の経験・体験をしていないダメな奴なのか?」
と、
少し落ち込みましたが、
思い出しました。

私は、
「あなたの経験値は高い」
という評価をまったく違う人たちからもらったことがあったのです。

一度目は、
大学2年か3年の頃。

サークル(フォークソング部)の一年上の先輩から、
誰かと比較して、
「児玉君は(○○君と比べて)いろんなを経験をしてきているから違うけどさ、・・・」
と言われたことがありました。

その先輩は、
サークルでの私の言動を遠目から見ていてそう評価してくれたのだと思います。

二度目は、
大学を卒業した次の年、
ある勉強会の集まりで、
そこの主宰者から、
「あなたのようにいろんなことを経験してきた人が、この集まりには多いんです」
と言われたことがありました。

その主宰者は、
対面したときの私の印象でそう評価してくださったのだと思います。

一度目も二度目も、
評価した人と私は私的な親交があったわけではありません。

「俺はこんなに高く評価されたんだ」
と、
自慢したいわけではないんです。

「本を読んでばかりいる自分はダメなのかもしれない」
と気持ちが沈んでいたので、
この二つのエピソードを思い出したときに、
それにちょっとしがみつきたくなったんです。

私も、
いろんな経験を(一般的な平均値より)たくさん積んでいた時期があったのだと。

だから、
これからも経験を積んでいけると思いたいです。

積んでいこうと思います。

生命って何だろう? 生きるって何だろう?
谺(こだま)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUT US
谺(こだま)
谺(こだま)こと、児玉朋己といいます。 歌うピア・サポーターをしています。 静岡県藤枝市にある自立生活センター「おのころ島」が運営している地域活動支援センター「りんりん」の施設長です。 精神障害を持つ方へ同じ当事者としてピアカウンセリングを行うほか、シンガー・ソングライターとして音楽活動をしています。