こんにちは!
谺(こだま)こと、児玉朋己です。
京都アニメーション放火殺人事件で死刑判決が下りました。
この事件の犠牲になられた方々には深くお悔やみ申し上げます。
また、
一つの区切りとはいえ、
ご遺族の方々の無念が癒えるわけではないと思います。
お見舞い申し上げます。
この事件の犯人と同じように妄想を経験してきた一人の精神障害者として、
裁判の行方には注目してきました。
正直な気持ちとして、
死刑という判決が出て安堵したというのはあります。
それは、
無罪あるいは減刑にならなかったおかげで、
多くの精神障害者が肩身の狭い思いを軽減できたと思うからです。
以下のエッセイは、
もともと拙著『手記 私はいかにして統合失調症から回復したのか 統合失調症の人とその周辺の人々へ』に収めるべく書かれてボツになった文章に、
判決を受けて加筆訂正したものです。
意見の違う方、
気分を悪くする方がいらっしゃるかもしれません。
また、
事実誤認や未熟な考えもあるかもしれません。
事実誤認については、
ぜひご指摘をお願いいたします。
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京都アニメーション放火殺人事件に死刑判決
繰り返される凶悪犯罪
附属池田小小学生無差別殺傷事件
秋葉原無差別殺傷事件
相模原障害者施設殺傷事件
川崎市登戸通り魔事件
京都アニメーション放火殺人事件
神戸北区五人殺傷事件
京王線殺傷事件
大阪北新地ビル放火殺人事件
今世紀に入ってからでも、
私達はこれまでこういった多くの凶悪犯罪を経験してきました。
近年では、
京都アニメーション放火殺人事件や大阪北新地ビル放火殺人事件がありました。
そのたびに多くの方が亡くなったり大怪我をされたりします。
心が痛みます。
亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。
また、
怪我をされた方が早く回復することを願ってやみません。
このエッセイでは、
こういった凶悪犯罪によって生じる大きなストレスの原因について考えたいと思います。
凶悪犯罪のストレスの原因は?
凶悪犯罪が起きると、
犯人は「精神疾患を持っていた」「精神科を受診していた」等の情報が流されます。
そして、
SNSなどを通して犯人に精神疾患が疑われていることについてさまざまな意見が表明されます。
そのなかでもっともだと感じた意見がありました。
京都アニメーション放火殺人事件についてのものです。
精神障害者だから犯罪を犯すわけではないことはわかっている。けれど、精神障害者だからといって無罪になったり減刑されたりするのが許せない。
という意見です(※注1)。
(※注1)
この意見は、事件発生当時、Yahooニュースの記事についたコメントです。
私の不備で、これが正確な文面ではなかったかもしれません。
ただ、私が勝手にでっちあげた意見ではありません。
それは、このあと紹介する他の意見についても同じです。
凶悪犯罪が起きるたびに、
犯人が精神障害を持っているか否か・責任能力があるか否かが問われます。
その過程で、
「精神障害者だから犯罪を犯したのだ」「精神障害者は危険だ」
というステレオタイプな見方が、
必ずしも正しくはないことが少しずつ一般に浸透してきたと思います。
当初は精神障害が原因で犯罪を犯したと見られても、
結果的には違っていたことが明らかになったりしました。
その結果、
上のような、
「精神障害者だから犯罪を犯すわけではないことはわかっている」
というバランスの取れた意見表明がなされるようになったのだと思います。
偏見に陥らず、
こうした見方を持ってくれる人がいてくれることには大いに励まされます。
だからこそ、
次段の
「精神障害者だからといって無罪になったり減刑されたりするのが許せない」
が切なく感じます。
もっともだと思うのです。
刑法39条によって、
心神喪失状態によって犯罪を犯した場合には無罪に、
心神耗弱状態によって犯罪を犯した場合には減刑になることが定められています。
これは不当ではないか?
精神障害が原因の犯罪だったとしても、
一般の犯罪と同じように刑に処されるべきではないか?
という意見ですね。
心神喪失・心神耗弱の規定が、
凶悪犯罪がもたらす大きなストレスの源だと思います。
心神喪失・心神耗弱の規定は必要?
このような大きなストレスをもたらす心神喪失・心神耗弱の規定をなくすことはできないでしょうか?
精神障害者が犯罪を犯したとしても、
一般の人と同じように刑に処すことにするのです。
心神喪失・心神耗弱の規定をなくせば、
凶悪犯罪が起きるたびに発生するストレスを大いに減らせるでしょう。
この規定をなくすことについて、
精神障害者自身からの反対意見はおそらく強くは出ないと思います。
精神障害者のなかでは、
歓迎する人はもしかすると反対する人より多いかもしれません(私見です)。
凶悪犯罪が起こるたびに肩身の狭い思いをしなくてよくなるからです。
さまざまな論点
この心神喪失・心神耗弱の規定をなくせないかという問いは、
当初、
私のAmebaブログの記事(現在は非公開)として投稿したものです。
その記事にコメントをくださった方がお二人いました。
そのコメントがさまざまな論点を提供してくださったので、
その意見を素材に考えていこうと思います。
かえって要求が過大になるかも
一つ目の意見は、
それをなくしたところで要求が過大になるだけだと思いますよ。
Aさん
次は拘束しろとかGPSで監視しろなんて言われそうです。
カテゴリ分けして少数派のせいにすることで、俺ら日本人とは違う異常者が起こした事件だということにしたいだけなので、否定することは否定して静観しているのがいいのではないでしょうか。
というものです。
この意見に対して思うのは、
たしかに仮に法律が変わったとしたら、
どのように世論が動くかわからず、
拘束や監視を厳しく求める声が大きくなるかもしれないというのはもっともだということです。
結論は静観しているほうが良い、
ということですが、
この方の意見には「是々非々で間違った認識は否定したうえで」という意味の前段があります。
これがけっこう重要ではないか、
と私は思います。
静観するというのはさしあたり現状のまま見守るということですが、
間違った認識は否定する、
という作業を淡々と続けるのは意外と賢いやり方ではないかと思いました。
というのは、
その作業を続けることで間違った認識がその都度正されるということが積み重なっていけば、
世論が拠って立つ認識が正される日が来るのではないかと思うからです。
「正される」というのは、
たとえば「病者は放っておくと通り魔的に人を殺しかねない危険な存在だ」
というステレオタイプな認識が、
冒頭で取り上げた、
「精神障害者だから犯罪を犯すわけではないことはわかっている」
という認識に変わったように、
病者の実情が正しく理解されるようになるということです。
時間はかかるでしょうけれど。
この意見と正反対の意見もありました。
法律を変えるよう実際に動く気概はあるのか?
それは、
本当にそう思うのであれば、法律を変える(精神鑑定などせずに、どんな人間も健常者と同じ基準で裁く)ように動いてみれば? と、私は思います。
Bさん
というものです。
この、
「許せない」と本当に思うのであれば、
実際の行動を具体的に取らなきゃいけないよね、
という意見には同感しました。
ネット上のニュースサイトのコメント欄やSNS上で「許せない」と表明することは大事だと思いますが、
具体的で実務的な行動に移るには壁がありますね。
「許せない」と言っている私たち自身がどこまで本気なのか?
私自身もこうやって「ああでもないこうでもない」と考えているだけに留まってしまっています。
法律の規定がすべてではないか?
また同じ方ですが別の考えとして、
現在の日本の裁判は、法と過去の判例に基づいて判決を下すものと教えられているので、日本の法律で「刑事責任を負う能力が備わっていない場合には処罰の減刑を適用する」と法律で定められている以上、それが全てなのだと思います。
Bさん
というものがありました。
私の知り合い(故人)が、
本音を話してくれる弁護士から聞いたそうですが、
その弁護士は、
病者を弁護する立場になったときは、減刑がされると解っている以上、迷わず真っ先に「心神耗弱・心神喪失」を取りに行く。
と話していたそうです。
まさにこれが裁判での実情かもしれません。
弁護士は、
いざ裁判になったら、
日本列島に住んでいる犯罪者ではない一般の精神病者がどう感じているかについては、
考え配慮する余裕はないのだと思います。
切なく虚しいです。
本来「許せない」と思うのは被害者や家族
最後の意見としては、
「許せない」という感情を抱くのは、本来事件に巻き込まれた被害者(家族)の方々であって、言葉が悪いですが、その他の傍観者(外野)がどうこう言う問題では無いようにさえ思います。
Bさん
がありました。
つい忘れてしまうことですが、
この意見が言うように、
「許せない」と感じるのは本来被害者(・家族)であり、
その他の私たちは外野だという認識を確認しておくのは大切だと思いました。
ただ、
自分は外野だと認識しつつ、
いつ自分が被害者(・家族)になってもおかしくないという気持ちを持つことも大事だと思いました。
だからこそ被害者(・家族)にも共感するのではないでしょうか。
責任能力の有無という論点
ところで、
「心神喪失・心神耗弱は必要か?」
「精神障害者の凶悪犯罪に減刑は必要か?」
という問題についてあれこれ考えてきておきながら、
ちゃぶ台をひっくり返すような論点があります。
それは、
心神喪失・心神耗弱を検討するのは一般の健常者でも同じだということです。
言い換えると、
刑法の適用には責任能力の有無が本題で、
心神喪失・心神耗弱はそれに付随する下位の論点に過ぎないということです。
子供の場合
たとえば、
子供の犯罪については、
大人の法律は適用されませんね。
子供には子供向けの法律がある。
それは、
子供には責任能力がないと見なされているからです。
刑法がふつうに適用されるには、
責任能力があることが前提になっています。
なので、
裁判では責任能力の有無が問われる。
健常者の場合
これは、
病者でも健常者でも同じなのです。
健常者でも、
酒に酔っていて犯罪を犯した場合、
素面(しらふ)のときのように責任能力があったかどうかが問われる。
心神喪失・心神耗弱が問われるのです。
酩酊していて正常な判断ができなかったと見なされれば、
減刑される。
精神障害者の場合
だから、
「精神障害者だから減刑になったり無罪になったりするわけではない」
ということです。
精神障害者でも、
犯行が病気の症状に影響を受けていたか否かが慎重に調べられます。
精神障害者でも、
犯行時に症状の影響が見られなかったと判断されれば、
責任能力があったと見なされ正規の刑罰に処されるのです。
なので、
前半で紹介した意見、
「精神障害者だからといって無罪になったり減刑されたりするのが許せない」
というのは、
事実の認識として誤解があったのです。
精神障害者だから、
精神障害者だというだけで無罪になったり減刑されたりするわけではなかったのです。
精神障害者でも責任能力があることがあるし(減刑されない)、
健常者でも責任能力がないこともあるのです(減刑される)。
これが責任能力主義です。
責任能力がなかった犯人の実数はどれくらい?
ところで、
冒頭であげた今世紀に入ってからの凶悪犯罪の犯人については、
犯人が事件直後に自殺した川崎市登戸通り魔事件と、
心神喪失と判断された神戸北区五人殺傷事件
および、
犯人が死亡した大阪北新地ビル放火殺人事件以外、
すべて責任能力が認められてきました。
そこで思うのですが、
責任能力のない状態で犯罪を犯してしまった犯人というのは、
実際のところどのくらいいるのでしょうか?
医療観察法対象者の統計から
ここでは、
医療観察法対象者の統計を見てみましょう。
令和元年6月25日厚生労働省障害保健福祉部精神・障害保健課医療観察法医療体制整備推進室より
医療観察法というのは、
附属池田小小学生無差別殺傷事件をきっかけにできた法律です。
精神障害による症状が原因で凶悪事件を犯してしまったと認定され、
心神喪失を理由に無罪になった人を指定病院に入院させ治療するための法律です。
医療観察法自体の評価については、
私には荷が重すぎるのでここでは保留します。
医療観察法対象者とは、
この法律のお世話になった人のことで、
犯罪を犯したものの心神喪失等を理由に不起訴になったり無罪になったりした人のことです。
上記資料3ページの統計によると、
この医療観察法対象者が最近はおおむね年間350人程度で推移しています。
そのうち入院した人が毎年おおむね250人程度です。
この年間350人・250人という数字を知ったとき、
私は「多いな」と思いました。
マスコミに取り上げられ世間を騒がす凶悪犯罪事件は大きな印象を残しますが、
多いと言っても毎年頻発しているわけではありません。
それに対して、
広く一般には知られないまま心神喪失等と判断された人が年間350人もいるのです。
この350人は心神喪失等だとされました。
この結果を見つめたとき、
私は「自分で訳がわからないうちに犯罪を犯してしまう人がたしかにいるんだ」という感想を持ちました。
心神喪失・心神耗弱の規定は必要だと思う
心神喪失は法律用語で医学用語ではないこと、
精神科医が心神喪失だと判断するわけではないこと、
精神鑑定は一定の方向を示すまでの役割であること、
検察と鑑定医で阿吽の呼吸があるらしいこと等(※注2)、
さまざまな問題があるでしょう。
心神喪失のすべての判断が正しいとは言いません。
しかし、
裁判所の判断には一定の根拠があると思うのです。
心神喪失等だと判断される人が年間350人いるという事実の重みを感じています。
この人たちがいる以上、
心神喪失・心神耗弱の規定は必要だと思いました。
(※注2)
ABEMATVを参考
判決左右も割れる精神鑑定…心神”喪失”と耗弱”の見極めは?「あうんの呼吸ある」
精神障害者の多くは「もし自分がやったらちゃんと刑に処してくれ」と思っている(まとめ)
自分で「心神喪失・心神耗弱は必要か?」と言っておきながら、
私の意見は「必要」となりました。
犯行時の責任能力の有無を調べられる点において、
健常者と精神障害者のあいだには差別がありません。
少なくとも法律上の扱いにおいては。
だから、
「精神障害者だから無罪になったり減刑されたりする」わけではないのです。
でも、
そう思っている人は多いという印象があります。
報道の仕方を工夫することで、
こういった誤解をなくすことは出来ないでしょうか?
凶悪犯罪が起こり、
精神鑑定が話題になるたびに精神障害者の多くが肩身の狭い思いをしているからです。
凶悪犯罪の犯人の中には、
無罪になるために精神病だと詐病して犯行に及んだ人がいました。
しかし、
本当の精神障害者で症状に動かされ訳も分からず、
つまり、
心神喪失・心神耗弱の状態で「自分は無罪になるから大丈夫」と考えながら犯行に及んだ人はいないのではないかと思います。
また、
「精神病のため攻撃的になることがある」のは否定できませんが、
凶悪犯罪では「思い悩んだ健常者が自暴自棄になって攻撃的になり事件を起こす」方が圧倒的に多いのではないでしょうか?
これは逆差別でしょうか?
あらためて言います。
精神障害者の多くが、
「症状が原因で私が訳もわからず犯罪を犯したら、無罪にせずちゃんと刑に処して欲しい」
と思っているであろう(私見です)ことは、
声を大にして訴えたいです。
私がX(旧Twitter)で行ったアンケートの結果を載せておきます。
割合として精神障害者の多くが、
標準的な刑を受けたいと思っているのです。
長文になりました。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
では、また!
生命って何だろう? 生きるって何だろう?
谺(こだま)
更生保護のボランティアをしていた時に感じた事は環境によって不遇な生き方をしてこられた犯罪者が多くいた印象だった。
環境は選べば良いと言う人もいるけれど、色んな素因や要因で選ぶ事が出来ない人がいるのも事実だと思う。
生まれながらにそれなりの親ガチャや環境ガチャもあると思う。しかし、全部をガチャの所為にするのはおかしいと言う事は理解しています。だが、環境が人間形成する上での重要な要因の一つとなっているのも事実だと思う。そして、自分に適切な環境を選べる人間ばかりでは無いと思った。
僕は様々な犯罪者の背景を全部知っている訳ではないが、彼等と少し関わった印象だが、彼等は不遇な環境で生きてきた人が少なくなかった。
だからと言って犯罪を犯す事が仕方ないとはとても言い難い。
心身喪失や耗弱で加害行為をした人間の処遇は賛否両論あると思う。
しかし、精神障害者は庇護を受ける一方的で受動的な存在や態度ではいけないと思った。精神障害者の一部の強烈な受動的態度が世間からは甘えた人間やずるい人間や、社会保障を受けて生活をしている人間のクセにとか思われるのだと思う。
精神障害者は権利を訴える前に自分自身でやれる事をやる必要ががあると思う。
能動的に行動してその上で自分達に必要な制度に関する声を上げないと説得力に欠けるし、世間も納得しないと思った。能動的に行動しないと本当に必要な制度や支援が見えて来ないと思った。
これは、精神障害者に限った事ではないと思う。
僕は犯罪に対しては許せないと同時に犯罪者を排他的に見るのではなく、犯罪は現在の日本の社会を反映した縮図と捉えている。更生保護は犯罪者自身の為だけではなく、更生保護から見えてくる社会の問題や欠点を踏まえ、社会を改善していく為のヒント沢山ある気がした。
犯罪が多くなる分、どんな社会が生きやすい社会なのか、社会も常に更生していかなければならない。
更生保護は犯罪者の更生と社会の更生に働きかける重要な政策だと考えたよ。