『これは水です』レビュー:日常に負けないリベラル・アーツによる真の自由

こんにちは!
谺(コダマ)ッチャンこと、児玉朋己です。

お元気していますか? 私は休憩中です。

今日は、『これは水です』という本についてお話しします。

本の帯のコピーには、

「夭折した天才ポストモダン作家が若者たちに遺した珠玉のメッセージ!」

とあります。

デヴィッド・フォスター・ウォレスというアメリカの作家が、2005年に、オハイオ州にある1824年創立のケニオン・カレッジの卒業式に招かれ、卒業生に贈った言葉です。

2010年に、タイムス誌によって2005年度の卒業式でのスピーチ全米第1位に選ばれたといいます。
その年には、スティーブ・ジョブズのあの有名なスピーチもあったのですが、それを抑えての1位だったということです

このうたい文句に惹かれて、私は書店で初めて知った作家の本を買ったのでした。

 

二つの寓話

ウォレスは、スピーチを二つの寓話で始めています。
この二つの寓話は、スピーチの締めで使われたフレーズに直結するものなので、触れておきます。

 

おサカナの話

若いおサカナが二匹、
仲よく泳いでいる。
ふとすれちがったのが、
むこうから泳いできた年上のおサカナで、
二匹にひょいと会釈して声をかけた。
「おはよう、坊や、水はどうだい?」

そして二匹の若いおサカナは、
しばらく泳いでから、はっと我に返る。
一匹が連れに目をやって言った。
「いったい、水って何のこと?」

p.6

 

ウォレスは、このおサカナの小話の肝心かなめのポイントは、「あまりにもわかりきっていて、ごくありきたりの一番大切な現実というものは、えてして目で見ることも口で語ることも至難のわざであるということ」だと言います。

 

エスキモーに助けられた話

こちらは少し長いので、私が要約します。

アラスカの辺境のバーで二人の男が酒を飲んでいます。
一人は信心深く、もう一人は無神論者です。二人は意地になって神が存在するかどうか激論します。

無神論の男が議論を終わらせるべく言います。
先月、キャンプを出たら猛吹雪に襲われて完璧に迷子になってしまった。一か八かで雪の上にひざまずいて叫んだ。
「もし神様がいらっしゃるのなら、どうかお助けください」

信心深い男が言った。
「それなら、あんたも神様を信じるべきだろ。生きてここにいるんだから」

無神論の男はこう言いました。
「とんでもないね。エスキモーが二人、たまたまそばを通りかかって道を教えてくれたのさ」

p.20(要約)

 

エスキモーの話のポイントは、信条が違うと現実の解釈がまったく変わることです。

その信条は、無意識に自然に埋め込まれたもので、自分中心に作られています。
そして、それは自分で意識して変えたり削除したりしないと初期設定のままだとウォレスは言います。

 

リベラル・アーツとは

ここで、ウォレスは、ケニオン・カレッジで教えるリベラル・アーツの価値について確認します。

ウォレスによれば、「ものの考えかたを教える」というリベラル・アーツのお題目が真に意味していることは、ほんの少し謙虚になり、自分自身と自分の確信に「批判的な自意識」を持つことです。

そして、「ものの考えかたを学ぶ」とは、なにをどう考えるかコントロールするすべを学ぶということです。それがリベラル・アーツです。

リベラル・アーツの価値は、社会人生活が、知らぬまに死人も同然の頭の奴隷に変じて生来の初期設定のまま来る日も来る日も過ごすことになるのをいかに避けるかにあります。

「来る日も来る日も」が意味しているものは、退屈、決まりきった日常、ささいな苛立ちです。

 

思考法を選ぶ自由

さて、大事なのは、こういうやっかいな、苛々する、クソみたいな瑣事こそあの「選ぶ」ということが始まる地点だということです。

このとき、無意識まかせの思考法で自分こそが世界の中心であり自分の当面の欲求と感情が世界の序列を決めるべきだと信じ込むこともできますが、それはとても選択と呼ぶに値しないものです。

なぜなら、初期設定のままだからです。

大事なことは、この種の状況を考えるとき、あきらかに違った思考法があるということです。
それはただ、あなたが何を考えたいか、によるのです。

あなたが本当に物事の考え方やどこにどう目をけるべきかを学んできたのなら他に選択肢があることくらい見抜けるでしょう。

思うにこれが、本当の教育がもたらす自由、どうやって適応能力を備えるかを学ぶことからくる自由なのです。

 

リベラル・アーツの奥義

ウォレスは、これこそがリベラル・アーツがもたらす自由であり奥義だと言いたいのでしょう。
その自由を、次のように語ります。

ほんとうに大切な自由というものは
よく目を光らせ、しっかり自意識を保ち
規律をまもり、努力を怠らず
真に他人を思いやることができて
そのために一身を投げうち
飽かず積み重ね
無数のとるにたりない、ささやかな行いを
色気とはほど遠いところで、
毎日つづけることです。

p.129

 

これを、ウォレスは「どうでもいい修辞を取り払った裸の真実」だといいます。

私には、これは、自分のやるべきことをやりなさいと言っているように聞こえますが、これに集中し続けるのはとても難しいと思います。

つい、色気を出して「もっと簡単な方法はないか」「もっとかっこいいやり方はないか」と横道に逸れてしまうのです。

ウォレスは、そんな道はないのだと言うのでしょう。

 

「これは水です」

このあと、ウォレスは次のように言って、まとめに入ります。

「これは水です」
「これは水です」

「あのエスキモーたちは
じぶんが思っている以上の存在かもしれない」

p.141

 

「これは水です」は、ちょっと唐突でした。一瞬、意味が解りませんでした。
けれど、私なりに意味を見つけました。

ウォレスが語った本当に大切な自由、リベラル・アーツの奥義である自由とは、私達がともすると忘れてしまう「水」なのです。

ウォレスが「水」で譬えていたのは、「あまりにもわかりきっていて、ごくありきたりの一番大切な現実というものは、えてして目で見ることも口で語ることも至難のわざであるということ」だったことを思い出しましょう。それが真の自由なのです。

忘れがちだから、二回も繰り返して「これは水です」と言ったのです。

 

この自由が実践できていれば良い水、できていなければ悪い水のなかにいるということではないでしょうか。

 

そして、その自由を実践するなかで出会う人は、あのエスキモーがそうだったように神様の使いなのかも知れません。

 

まとめ

私の初期設定は何かと考えさせられました。

上では省きましたが、ウォレスは、スピーチの中で日常のささいな出来事について活写しています。

私の初期設定では、そういう日常を「めんどくさい」と感じるようです。

そういった日常の瑣事はやらないですむならやりたくないもの、避けたいものなんです。
それが自分勝手で自己中心なのは明白です。

 

それをまず自覚して、もっと違うように考えること、それがリベラル・アーツへの第一歩なのかもしれません。

 

あとは、奥義ですね。真の自由はこれだ! という。
わかっていても、ついそこから逸れていってしまいます。

ウォレスも、「想像を絶するほど難しい」と言っています。

だからこそ挑戦しがいのあるものなのだと思います。

 

ウォレスは、このスピーチの三年後に自殺しました。
双極性障害からくる鬱が原因のようです。

日常の瑣事について、自分がひどく気にしてしまうからこそ、自戒を込めてこのようなテーマを選んだのかもしれないと思いました。

ご冥福を祈ります。

 

 

生きるって何だろう? 生命って何だろう?
谺(こだま)


これは水です

 

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ABOUT US
谺(こだま)
谺(こだま)こと、児玉朋己といいます。 歌うピア・サポーターをしています。 静岡県藤枝市にある自立生活センター「おのころ島」が運営している地域活動支援センター「りんりん」の施設長です。 精神障害を持つ方へ同じ当事者としてピアカウンセリングを行うほか、シンガー・ソングライターとして音楽活動をしています。