こんにちは!
谺(こだま)こと、児玉朋己です。
お元気してますか?
私は久しぶりにお酒を飲みまして、
ちょっと良い気分でホンワカしています。
本日は、
「シン・病者の教養とは?」
の続編をお届けしたいと思います。
それは、
少し学んでつい自己満足する自分を、
ちょっとマズいゾ!
と指摘する自分を持ちたいと思ったからです。
かなり長くなってしまいましたが、
ぜひぜひ~
※本ページではアフィリエイト広告を利用しています。
シン・病者の教養とは?その2
「メタ認知」の大切さ
何かを考えたり行ったりしているときに、
一歩下がってその自分を見る視点が大切だとよく言われます。
いわゆる「メタ認知」ですね。
シン・病者の教養と銘打って、
いくつか記事を投稿しましたが、
「教養を語るその自分」を見つめる視点を持ちたいと思いました。
そこで今回は、
私が学ぼう・語ろうとしている「教養」について、
あらためて考えたいと思います。
『アメリカの大学生が学んでいる本物の教養』
参考に取り上げるのは、
『アメリカの大学生が学んでいる本物の教養』
という本です。
斉藤淳著、
SB新書です。
この本で印象的だったのは、
- 教養のある人とはどんな人か?
- 教養のある人が持つべき態度・姿勢とはどのようなものか?
について強調して語っていることでした。
ですので、
そのあたりを中心に取り上げていこうと考えています。
以下、
引用はすべてこの本からです。
「よき思考者」になろう
プロローグの結びで著者が強く呼びかけるのが、
「Good Thinker=よき思考者(思想家)」になろう
ということです。
それには根拠があり、
次のように語っています。
ここで参照したいのが、イェール大学の前総長リチャード・レヴィン氏の言葉です。
(P.22)
筆者が博士課程の大学院生であった2005年、レヴィン総長が来日した際に、通訳として同氏に同行する仕事を仰せつかりました。外国人記者クラブでの会見で、「イェール大学でどんな学生を育てたいか?」と問われたレヴィン総長は、「Good Thinker(上手な思考者)である」と答えました。意訳すると、これは「みずから思索して判断できる人たれ」というメッセージです。たったひとこと、シンプルでありながら、非常に示唆に富む言葉だと思います。
著者が学び勤めた大学の総長の言葉が下敷きとしてあるんですね。
そして著者は、
これこそが「アメリカの大学生が学んでいる本物の教養」のエッセンスだというのです。
よき思考者、
ぜひなりたいと思いました。
また、
著者は「謝辞」で、
次のようにも語っています。
よき思考者とは何か?
最後に、本書を著者の恩師である故フランセス・ローゼンブルース先生に捧げたいと思います。フランセスは、どのような状況でも、不肖の弟子である私を暖かく励ましつづけ、導いてくださいました。また、私に独自の着想を持ちつづけるよう、誰の真似もせず、自らが正しいと信ずるみちを進むよう、勇気を下さいました。本書での記述の多くは、イェール大学で、フランセスをはじめとする知の巨人たちと議論しながら学ばせていただいたことを、稚拙ながらも筆者なりに再表現したものです。
(P.212)
ここには、
イェール大学でその理念がしっかり貫かれていることが記されていますね。
- 独自の着想を持ち続ける
- 誰の真似もしない
- 自らが正しいと信ずる道を進む
- これらすべての勇気を持つ
「よき思考者」になるとは、
こういったことができるようになることだと思いました。
自分の言葉で語る
また、
「学んだことを稚拙ながらも再表現した」
と語っているのも重要だと思いました。
本書を通読すればよくわかるのですが、
「アメリカの大学生が~」とは言っていても、
著者の語り口は、
いわゆる出羽守(でわのかみ)のような知見をひけらかすような物言いではありません。
著者が血肉としたものを自分の言葉で語っているのです。
それがまさに、
- 教養のある人とはどんな人か?
- 教養のある人が持つべき態度・姿勢とはどのようなものか?
を体現していると思います。
教養のある人が持つべき態度
では、
その「教養のある人が持つべき態度」とはどのようなものでしょうか?
これから著者の発言を列挙していこうと思います。
以下、
1章 深く学ぶ―――勉強とは違う「教養人の学びの姿勢」とは
から多数、
抜き書きしていきます。
感謝・敬意・畏怖
まず、
著者の言う「教養人の態度」の大本にある根本的な態度があります。
それは次のようなものです。
我が身をもって知識生産に多大な努力が必要であることを知ればこそ、学びに対して誠実になります。何を学ぶにせよ、その知識がどれほどの時間や労力の賜物であるかを実感しながら、真摯に謙虚に学ぶことができる、学び続けることができるのです。
(P.35)
(中略)
学びつづけるには、知識に対する素直な感謝に根付く敬意や畏怖の念が不可欠です。
知識に対し感謝し、敬意を払い、畏怖の念を持つこと。
著者は教養人にとって大切な姿勢・態度をいくつも語っていますが、
そのなかでもこれこそが著者の言う「教養人の態度」の根本だと思います。
そして、
私たちがこの根本を育むために必要なのは、
知識生産を体験してみることだ強調しています。
さて、
この感謝・敬意・畏怖を持つことを前提として、
その他にはどんな態度が大切なのでしょう。
体験や実践から学ぶ
著者は次のように語ります。
知識は自分の外側に膨大にあるものですが、知識を用いて考え、己の価値観のもとで行動する主体は、あくまでも自分でしかありません。体験や実践は、こうした「知識に対する主体性」を担保するのに欠かせないというわけです。
(P.52-53)
(中略)
自身の体験や実践を通じて、自分なりに世界の手触りを確かめながら、社会のあり方を考えたり、自分の生き方や社会との関わり方を確立したりしていくことが、真の教養人の態度といえるでしょう。
この部分は、
「『学ぶという茨の道を歩んでいる自分は偉い。他人とは違うんだ』というある種の選民意識」(p.52)を持ってしまった「『教養人』とは程遠い『おかしな知識人』」(p.52)に対比させています。
「本で得る知識だけが教養ではない」(p.51)とも言っています。
本だけでなく自分の体験や実践を通して社会の実像をつかんだり、自分の生き方を作り上げていく姿勢。
それも真の教養人のあり方なのです。
何でも面白がる
また、
次のようにも語っています。
「何を」学ぶかは、あまり問題ではなく、必要な状況で学んだ教訓を取り出し、知識を更新し、判断することです。
(P.61)
(中略)
なによりも本当に重要なのは、日々、「いかに」学ぶか、なのです。
「○○の役に立つから学ぶ」のではなく、「役に立たないことこそ、役に立つ」「すぐには役に立たないけれども、学ぶ」という視点で、おもしろがって知識を身につける、体験していく。
ここには、
態度という言葉は使われていませんが、
役に立つこと・卑近な目的にこだわらず、面白がって学ぶ態度の大切さが語られています。
「わかる」の段階に自覚的
また、
次のようにも語ります。
すべてを「わかる」ことなどできないという知的謙虚さをもって、「わかる」とは、いくつかのスぺクトラムであるという点を認識している。そのうえで、知識と向き合うつど、どの「わかる」のスペクトラムを目指すのかを定めるというのが、「わかる」ということに対する教養人の態度であると、私は考えているのです。
(P.64-65)
これは、
「わかる」のスぺクトラムという言葉がわかりにくいかもしれません。
スペクトラムとは、
「連続体」という意味ですが、
著者は次のように説明しています。
「わかる」とは、ある特定の分野について・・・・・・
(P.64)
・自分の右に出るものはいないというくらい網羅的かつ深い知識がある
・まだ学びはじめではあるが、ある程度は自分の言葉で説明できる
・全般的にうろ覚えだが、体系づけて学んだ経験がある
・ちょっとかじった程度の「にわか知識」がある
「わかる」とは連続体ですから実際には無限の段階があると私は思うのですが、
著者はおおまかにそれを4つの段階に分けています。
知識を学ぼうとするときに、
「自分はどの段階を目指すのか」に意識的であろうとする態度を持ちたいと言っているのです。
あるいは、
自分の知識量はどの段階なのか気づいていたい、
ということでしょうか(私見です)。
他者の事情や心情への敬意・謙虚さ
また、
知識自体ではなく他者の事情や心情に対する教養人の態度についても述べています。
たとえば親を亡くして悲しんでいる知人に対して「わかるよ」なんて安易に言うのは無神経です。相手を心配するあまり、できないことまでしてあげようとするなど、自己犠牲を伴うほど過度に共感するのも、おたがいにとってまったくよくありません。
(p.68)
「あなたのつらさを本当には理解できない。でも想像してみることはできる」という姿勢で寄り添うのが、知人として誠実な態度といえるでしょう。
(中略)
想像力を駆使して「わかろうとする」。そういう姿勢をもって他者と関係を築くことができるというのも、教養人のあり方の1つです。
本や体験から得られる知識以外に、
他者の事情や心情にたいしても敬意・謙虚さを持つのが教養人なのですね。
さて、
これまで1章から多くの引用をしてきました。
最後に、
これも1章からですが、
いま現在の私たちの状況にぴったりの処方箋がありましたので、
紹介したいと思います。
それは、
「●正解を出す難しさに立ち向かう」
という見出しで始まる項にあります。
暴力的に排除しない
社会のあり方が気に入らないからといって、自分たちと思想を同一にしない他者を暴力的に排除し、社会を転覆することを目論む。これこそ知識の冒涜でしょう。とうてい「教養ある人の態度」とはいえません。教養とは、現実的な平和主義に裏打ちされたもので、自衛目的以外での暴力の行使に対して抑制的であることを前提としています。
(P.40)
知識は、自分の頭で考えること、他者と議論し合意形成を目指すことの源泉となるものです。そのように知識を使えない人たちは、一定量の知識があるという意味では「知識人」かもしれませんが、「教養人」とはいえないと考えます。
(中略)
教養は、人類の知的な歩みに対して、敬意を抱きつつ、漸進的かつ現実的に合意形成をはかる忍耐強さをもたなければならないのです。
この部分は、
かつて日本で「進歩的文化人」といわれていた人たちのことを想定しています。
マルクス主義を根拠に日本が進歩した先の未来像として社会主義国を見据えていた人たちです。
当時の左翼運動は基本的に暴力による社会変革を是としていました。
引用した部分にある「自分たちと思想を同一にしない他者を暴力的に排除し」の部分が指している人たちです。
気に入らない人を暴力的に排除するのは教養のある人が行うことではないのです。
すべて受容はしない
さて、
ここからが凄いと思うのですが、
ここで著者は次のように問います。
では対照的に、誰のこともいっさい排除せず、すべての人たちに寛容であろうとする態度はどうでしょうか。
(P.41)
他者を排除するのがまずいのなら、
すべての人を受け容れてしまえばよいのではと考えます。
実例をあげて読者に考えさせた後、
著者は次のように言います。
寛容性は教養の一面です。学べば学ぶほど、この社会の多様性を認識し、他者の事情を、完全に理解はできないまでも、想像することができるようになる。これを英語では「エンパシー」と呼びます。一方的な同情ではなく、想像力を駆使して理解する努力をしながら他者に共感する、ないしは距離を置くことを視野に入れるということです。
(P.44-45)
「うんうん。そうだ。そのとおり。」と思います。
しかし、
続いて著者は次のように言うのです。
すべての多様性を受け入れようとするのは「教養ある人の態度」とはいえません。それは往々にして単なる理想論に終始し、何一つ選べない、決められない、そして結局は「美辞麗句に逃げ込み、考えることを放棄する」ことになりかねないからです。
(P.45)
この多様な社会を、できるだけ誰にとっても平等に、快適に成り立たせていくことが、いかに難しいか。
「何でも受け入れる」でもダメなんですね。
それだと結局は思考停止と同じになってしまうから。
漸進の一端を担う
著者は次のようにまとめます。
考えることを放棄せず、絶えず新たな知識や情報を学び、他者と議論したりして、どの選択肢をとるべきなのかを考えつづける。1つの正解に安住せず、アップデートしていく。(中略)社会を漸進させる一端をみずから担っていく。
(P.45-46)
このように、正解を出す難しさに立ち向かうというのが「教養ある人の態度」であり、その知的体力を養うものこそ教養教育であると私は考えているのです。
私の言葉で言い換えて整理すると、
- この思想が真理だ。他はすべて排除だ。
- 唯一の真理なんてない。すべて受容だ。
この双方が1つの正解に安住した態度であり、
考えることを放棄することになるんですね。
漸進・漸進的という言葉は、
「徐々に目的に近づいていく」
といったイメージの言葉です。
暴力で一気に目的達成しようとしてもいけないし、
目的をなくしてしまってもいけないということでしょうか。
教養には実は目的がある
目的という言葉が出てきたので、
最後に目的と教養の関係についてお話しようと思います。
以前の記事「シン・病者の教養とは?」では、
「教養は決まった目的があって身につけるものではない」
ことを学びました。
この本でも同じことを言っています。
教養は、何かを目的にして身につける類のものではありません。
(P.55)
その一方で、
実は教養にはより上位の目的があることも明確に述べています。
しかし、価値観を重視せずして「教養人」にはなれません。
(P.98-100)
(中略)
なぜ、ここまで私が価値観を重視するのか。それは、そもそも教養=リベラル・アーツが、社会的に守りたい価値を守るために発展したものといえるからです。
先に少し触れたように、リベラル・アーツの背景には、古代ローマ・ギリシャ時代に発展した直接民主主義があります。
庶民も政治に参加できる社会を成立させるため、自由な言論秩序をつくるため、市民一人ひとりの平等を叶えるため、そしてそういう社会を存続させるために、庶民の学問として学ばれるようになったのが「自由七科」でした。
教養というと、一般的には「いろいろな学問に造詣が深い」というイメージが根強いようです。
しかし、リベラル・アーツの成立根拠は「物知りになること」ではなく、「(民主的な社会をつくり、継続させるという)理想を叶えるために学問を修めること」だったのです。アテネ市民にとって、知識は「目的」ではなく、個々が社会構築の一端を担うための「手段」だったわけです。
教養には卑近な目的はない。
けれども、
長い目で見たときの目的や守るべき価値観があるのですね。
その目的・守るべき価値観とは、民主主義を支える自由・平等といった価値観です。
この目的・価値観を守るためにこそ、
私たちは学ぶのです。
それが教養の目的なんですね。
個人的な人生の目的でも構わない
これまでは取り上げませんでしたが、
著者は、
私たち個人が持つ人生の目的のために学ぶことはアリだと言っています。
著者は、
7歳の時に「故郷の喪失」を体験したことが(故郷のために)学び続ける原動力になったという自分の経験を実例として紹介しています。
私の場合(まとめ)
私は静岡県に生まれまして、
東京の理系の単科大学に進学しました。
進学当時、
私はテロリストになりそうな自分を持て余していました。
「悪の権化である政治家を暗殺しなければいけない」と思いつつ、
「でもこの思いは危なくおかしなものではないか?」という気持ちがあり、
何とかバランスをとっていたのです。
初めて新宿の紀伊国屋書店に行ったとき、
『テロルの現象学』という本が平積みされているのに遭遇しました。
タイトルと帯から「これは俺のための本だ」と直感して購入しました。
そして、
私はこの本に救われたのです。
この本は、
連合赤軍事件をもたらした革命の正義の欺瞞について、
その発生の現場から解き明かしていました。
私の「悪の権化の政治家」という思いはホントに私的な私の小さなルサンチマンから発生していたのです。
そんな理由でテロを起こしてはいけないと腹落ちしました。
いまはどんな理由があってもダメだと思っています。
その後、
『テロルの現象学』の著者笠井潔氏と対談している本を読んだだことをきっかけに、
栗本慎一郎氏の著作を読むようになりました。
大学を卒業した時期には、
栗本氏の私塾「自由な開かれた経済人類学のための大学」に所属したりもしました。
そこで教えてもらった、
『故障した脳』(ナンシー・C.アンドリアセン著)
という本は、
「精神の病気を脳の故障として捉える」
という精神医学のパラダイムを提唱するものでした。
この、
「精神の病気を脳の故障として捉える」
という知識があったおかげで、
私はその後、
統合失調症を発病した際に、
余計な回り道を取ることなく済みました。
教養に思いがけず救われた実例です。
蛇足
栗本慎一郎氏は、
「マルクス主義は失敗だったよね」という前提で、
ニューアカブームのブームではない本質の本体を担っていたと思います。
『構造と力』(浅田彰著)が文庫になるそうな。
その流れで栗本慎一郎のリバイバルも来ないかなぁ。
生命って何だろう? 生きるって何だろう?
谺(こだま)
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