ニューロダイバーシティ時代の哲学

こんにちは!
谺(こだま)こと、児玉朋己です。

お元気してますか?
私は心地よい疲労感を味わっています。

そんななか、
今回はちょっとむつかしいことを考えてみました。

硬い語り口になっていますが、
一緒に考えてくださると嬉しいです。

では~

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「心が弱い」って?

心が弱い人がうつ病になる。
統合失調症になる。
メンヘラになる。

悪意なくこのように思う人は多い。
けれど、本当にそうだろうか?

精神疾患は脳の特性で起こる

統合失調症の場合

たとえば、代表的な精神疾患である統合失調症は脳内の神経伝達物質の失調で起こる。失調の原因がストレスだ。同じストレスで平気な人もいるのに病気になったのは、脳がストレスに対する弱さ=ストレス脆弱性を持っていたからだ。心の弱さではなく脳=身体の弱さが統合失調症の原因だ。
たとえば『改訂版 統合失調症 正しい理解とケア』(白石弘巳 監修)では、統合失調症はいくつかのリスク要因が重なって発症するといい、次のようにその要因を列挙している。

  • 脳の生物学的な要因
  • 心理的な要因
  • 遺伝的な要因
  • 環境的な要因

このうちの「心理的な要因」については、次のように語られている。

●心理的な要因・・・病気になりやすい本人の弱さやもろさ(これを脆弱性といいます)があり、そこへ、心理的、社会的、身体的ストレスなどが加わることで発症しやすくなるといわれます。
 この弱さやもろさは、もともと遺伝的に病気になりやすい体質である場合や、母親の胎内にいたとき脳に何らかの障害(ウイルス感染や分娩時外傷、栄養障害等)を受けた場合などに生じるのではないかと考えられています。

『改訂版 統合失調症 正しい理解とケア』(p.46)

「心理的な要因」として説明されているので、いわゆる「心の弱さ」を言っているのかとドキリとする。しかし注意深く読むと「心の弱さ」という言葉は使われず、「本人の弱さやもろさ」「体質」「脳に何らかの障害を受けた」という言い方がされている。私は、ここでは脳=身体的な基盤の脆弱性を語っていると理解する。統合失調症は、脳の特性により起きるのだ。

他の精神疾患でも同じ

統合失調症を取り上げてきたが、他の精神疾患でも大きな違いはないと考える。遺伝その他の理由から脳に生物学的・身体的な脆弱性を持った人が、環境的な要因などから大きなストレスを受けた場合に精神疾患になる。心の弱さではなく脳の特性が問題なのだ。

非行や犯罪も脳の特性で起こる

さて、心の弱さではなく脳の特性が原因で起こる事象は他にもある。
犯罪者の多くが脳に問題を抱えていることもその一つ。

非行を繰り返す場合

ベストセラーになった『ケーキの切れない少年たち』(宮口幸治 著)では、著者が勤務先の医療少年院で出会った問題行動を繰り返す少年たちの特徴が描かれている。

・認知機能の弱さ・・・見たり聞いたり想像する力が弱い
・感情統制の弱さ・・・感情をコントロールするのが苦手。すぐにキレる
・融通の利かなさ・・・何でも思いつきでやってしまう。予想外のことに弱い
・不適切な自己評価・・・自分の問題点が分からない。自信があり過ぎる、なさ過ぎる
・対人スキルの乏しさ・・・人とのコミュニケ^-ションが苦手
+1身体的不器用さ・・・力加減ができない、身体の使い方が不器用

『ケーキの切れない非行少年たち』(p.47-48)

こういった特徴をもたらすそもそもの原因は、軽度知的障害や境界知能、発達障害だという。

大人の犯罪の場合

少年院ではなく刑務所にいる大人の受刑者では、軽度知的障害相当や境界知能相当を併せると新規受刑者の半数近くになるともいう。一般的には、軽度知的障害と境界知能を併せると15~16%らしく、受刑者における割合はかなり高い(p.115)。

軽度知的障害や境界知能、発達障害は、脳の障害だ。子どもでも大人でも繰り返し法を犯してしまう理由は心の弱さではなく脳の特性だといえる。

努力も脳の特性で起こる

ところでまた行動遺伝学によると、努力できる能力も脳の特性らしい。

勤勉性について

『能力はどのように遺伝するのか』(安藤寿康 著)では、「パーソナリティも『生まれつき』のもの」という見出しで次のように語られている。

パーソナリティは非学習性の非能力の代表的なものだ。多くの人は信じないかもしれないが、よい学習をするのに必要となる「勤勉性」は、そのようなものの一つである。
「勤勉な人」の示す勤勉性とは、たとえば毎日決まった時間に決まった仕事に従事し、その仕事を達成するまで他の誘惑にとらわれず几帳面にやり続け、その成果に責任を持つなどという行動が、どんな仕事のどんな場面であろうと、ほとんどいつも見られるようなことだろう。(中略)実は、それらは一つ一つ、技能として学習した結果として獲得されたものではない。あらゆる経験に先立ってアプリオリに、あらかじめデフォルトとして設定された状態で、そうした一連の行動特徴がパッケージとして発揮されるような性向を、その人が人生で初めてその行動を発現するときからもっているのである。(中略)誰も教えてもいないし先行する特別な経験もなくとも、そうした性質が出てくるのだ。

『能力はどのように遺伝するのか』(p.63-64)

パーソナリティの一側面である勤勉性は、一人ひとりにどの程度の強度でどのような特徴を持って発揮されるかがあらかじめ決まっているというのだ。

脳神経学的にいう努力の定義

著者によると、厳密に脳神経学的にいう場合の努力とは、この勤勉性を意識的なコントロールによって一時的により強く変化させようとすることだ。ふだん勤勉でない人も試験前には意識的に勤勉になることがある。しかし、試験が終われば元の低い勤勉性に戻る。著者によると、こうした一時的な努力を繰り返しても元々の勤勉性のレベルを上げることはできないという。パーソナリティが非学習性だと言われる所以だ。勤勉性は、努力によって高めることはできないのだ。

一般的にいわれる努力できる能力としての勤勉性

ところで、脳神経学的な努力とはこのようなものだが、私たちが「あの人は努力家だ」という場合、勤勉性そのものを指すことも多い。他の人が遊んだり休んだりしているときにやりたいこと・やるべきことを誰に言われるでもなく勤勉に行い続けることだ。だからここでは勤勉性それ自体を努力できる能力と呼びたい。この努力できる能力が、生まれつき決まってしまっているというわけだ。そう、脳の特性として。

自由意志では努力できない

一般的には、努力は本人次第で自由意志によりやろうと思えばできるものだと考えられている。努力しない人は、自分の意志でできるにもかかわらずやろうとしないだらしのない人・怠け者だと考えられている。
しかし、それがそうではなかった。努力できる能力は、一人ひとり脳の特性として生まれつき決まってしまっていたのだ。
「自分は努力して高学歴・お金持ちになった」と自慢しても、実はたまたまそういう脳を持ったおかげだということになる。逆に、努力できないパーソナリティも脳の特性が原因であり、本人に落ち度はないことになる。

さまざまな事象が脳の特性で起こる

精神疾患、非行や犯罪、努力など、さまざまな事象で生まれつきの脳の特性が原因になっていることを見てきた。精神疾患になりやすい人もいれば健康でずっと元気な人もいる。本人に落ち度はないのに非行や犯罪を繰り返してしまう人もいるし、そういうこととは全く縁のない人もいる。苦もなく努力を続けられる人もいれば、何をやっても長続きしない人もいる。すべては脳の特性だ。

ニューロダイバーシティ

こうした脳の多様性を相互に尊重し活かそうというのがニューロダイバーシティ(神経多様性)の考え方だ。経済産業省のページでは次のように説明されている。

ニューロダイバーシティ(Neurodiversity、神経多様性)とは、Neuro(脳・神経)とDiversity(多様性)という2つの言葉が組み合わされて生まれた、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方であり、特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念でもあります。

ニューロダイバーシティの推進について

ヒトのDNAがかなり詳しく解読できるようになって、私たちの多様性の元が一人ひとりの持つ遺伝子の違いであることがわかって来た。その違いは、まずなによりも脳の特性の違いとして現れる。だから神経多様性と呼ばれる。ニューロダイバーシティという言葉には、その多様性を生かしていく社会を作ろうという理念が込められている。

ニューロダイバーシティ時代の哲学

早稲田メンタルクリニックの動画

ニューロダイバーシティ時代については、我らが益田裕介Dr.も語っている。
たとえば次の動画。

脳の特性とはつまり運だ

脳の特性は与えられたもので、本人の努力では変えられないどうしようもないものだ。つまり運だ。どんな脳を持って生まれるかは運。精神疾患になりやすい脳を持って生まれるのも運だし、犯罪者になりやすい脳を持って生まれるのも運だ。健全に生きやすい脳を持って生まれるのも運だ。

運とはつまり確率だ

運とは、つまり確率だ。社会全体の中で何パーセントの人が障害(精神疾患になりやすい・非行や犯罪を繰り返しやすい・努力が苦手)を持つのかが決まっている。だから、ある人がある障害を持った場合、別の人はその障害になる恐れは減少する。

「あの人は私だったかもしれない」

これを敷衍すると、あらゆる事象について「あの厄介な(ことに巻き込まれている)人は私だったかもしれない」といえる。自分があの人でなかったのは、たまたまの幸運だったのだ。あの人は私の代わりにあの困難を引き受けてくれたのかもしれない。だから全体で支え合う必要がある。福祉や社会保障だ。
「あの人は私だったかもしれない。」
これがニューロダイバーシティ時代の哲学だと思う。

生命って何だろう? 生きるって何だろう?
谺(こだま)

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ABOUT US
谺(こだま)
谺(こだま)こと、児玉朋己といいます。 歌うピア・サポーターをしています。 静岡県藤枝市にある自立生活センター「おのころ島」が運営している地域活動支援センター「りんりん」の施設長です。 精神障害を持つ方へ同じ当事者としてピアカウンセリングを行うほか、シンガー・ソングライターとして音楽活動をしています。