こんにちは。
谺(コダマ)ッチャンこと、児玉です。
元気でいますか? それとも、ちょっと不安定?
「少し体調が悪いくらいなら、自分で面倒みられるけど、本当に危機的(クライシス)になったら、入院するだろうな」、あなたはそう思っているかもしれません。
そんなとき、精神病院がなかったとしたら?
今の日本で突然精神病院がなくなったら、大きな混乱が起こるでしょう。けれど、もうすでに精神病院をなくしている国があります。いったいどこの国でしょうか?
なくすにあたっては多少の騒動はあったようですが、大混乱には陥らず成功させました。
その国は、、、イタリアです!
今日は、イタリア国営放送(RAI)が製作した映画、『むかしMattoの町があった』を観た感想を書こうと思います。
「Matto」とは狂人を意味していて、「Mattoの町」とは、精神病院のことです。
精神病院を解体したイタリア
イタリアは、1978年に「180号法」別名「バザーリア法」を公布し、精神病院を廃止する決定をしました。
その決定が行われるまで運動の中心にいたフランコ・バザーリアの活動を、入院していたMatto=精神病者たちとのかかわりをとおして描いたのがこの映画です。
イタリアが精神病院を解体し、廃止したことは知っていました。
今回この映画を観ることで知りたかったのは、「なぜそれが可能だったのか」「何がそれを可能にしたのか」ということでした。
その答えは、この映画の中にたしかに描かれていました。
ストーリーとして語られていたし、それを象徴する言葉もありました。
何が精神病院解体を可能にしたのか?
ストーリーをこの場で記すのは難しいですし、ネタバレにもなってしまいます。
なので、象徴的な言葉・バザーリア自身の言葉を記そうと思います。
予告編にも出てくるのですが、
最初の赴任先だったゴリツィア精神病院で、
守旧派のピント医師が「彼ら(患者)の心は空っぽなんだ」と言ったのを受けて、
バザーリアが、
見解の相違がありますね。
彼らの心は空っぽじゃない。
あなたの過ちは、患者の拘束にあるんじゃない。
当初感じたという苦悩から逃げたことです。
グイード先生も皆も感じている苦悩があればこそ患者と向き合える。
患者の狂気とではなくその奥にある人間性と。バザーリアの言葉
って応えるんです。
病気ではなく人を診る
ここには、Matto(狂人)の狂気(症状)を見るのではなく「人を診る」のだという思想が表明されています。
「病気ではなく人を診る」という言葉は、医療や福祉に携わる人なら当然知っていると思います。私も知っていました。
いや、知っていると思い込んでいました。
バザーリアは、この映画全編を通じて「病気ではなく人を診る」ことを徹底して貫いていきます。その結果が精神病院の解体だったのです。
言葉自体は知っていたとしても、はたして私は「病気ではなく人を診る」ことを貫いているだろうか?
そう自問させられました。
精神病院を許容している私は人を診ることに徹しているのだろうか?
映画の終盤で、主人公の一人でもある男性患者がバザーリアに尋ねます。
先生、教えてくれ。
苦しみが俺たちを狂わせるのか?
狂ってるからこんなにも苦しいのか?ボリスの言葉
バザーリアは、それに「わからない。本当にわからないんだ」と答えます。
患者一人一人に向き合ってきたからこそ発せられる誠実な言葉だと思いました。
精神病院を解体させたのは何だったのか?
それは、
「病気を見るのではなく人を診る」「狂気ではなくその奥にある人間性と向き合う」、それを徹することだったのです。
私たち日本人は?
これを、日常の一瞬一瞬に妥協せずかなえていったとしたら、私たち日本人にも結果的に精神病院を解体することは可能なのかもしれない、そう思いました。
徹底するならそうせざるを得ないでしょ、と思った次第です。
この映画は、精神病院はいらない!: イタリア・バザーリア改革を達成させた愛弟子3人の証言という本の付録についてきます。
では、また。
生きるって何だろう? 生命って何だろう?
谺(こだま)
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